言いたいことは本人にぶつけないと意味がない。
それに気づいてブログに書くものが減った。
ブログに書くのは内に秘めた感情だったのかもしれない。
ただ、それは本人に言った方が良い。
心の暴言なんだったら、押さえ込んだ方が良いかもしれない。
でもそういう感情がブログに溢れ出すほど、我慢して生きてない。
つらつらと過去に起きたことを、ここに書くことに興味がなくなってきた。
人間は、他人と話していると、いつまでも「過去のこと」を話している。
こんなことがあった。
こんなことを思った。
そういう行動に意味を見いだせなくなってきた。
だれかと現実で喋ってる瞬間。
そういうときだったら、その場の娯楽として、良いだろう。
でも、過去の出来事を話すという行動を、
一人の時、
わざわざ時間をとって、
インターネットでもやる意味があるのか?
過去にこだわるほど、
今この瞬間の現実が見えなくなる。
自分の頭の中の、過去のイメージ。
そう言うものに夢中になっている瞬間は、
五感は閉じ、
イメージの中に囚われ、
現実を生きていない。
生きてる実感がしない。
外に出て自然と触れ合ったり、
自分の体の感覚を感じながら運動してるとき、
生きてる実感がある。
ネットばっかり、
モニターばっかり見ているとき、
いつのまにか体の感覚は閉じて、
周りが見えなくなっている。
そういう瞬間を減らしたい。
そういう時間を減らして、
今この瞬間を生きる。
それが自分の中の幸せにつながっている気はしている。
ただ、仕事柄、どうしてもイメージの中にいないといけない時がある。
自分の癖として、
言葉を浮かべているとき、
絵を考えている時、
心が現実から飛んでいってしまう。
この癖を直していく。
僕は考え事をしている時、五感が閉じる。
これはたぶん、一種の現実逃避だったんだと思う。
つまらないなあと感じることが多かった。
そういう時、現実より頭のなかにいることが多かった。
自分の言葉に夢中になっている時も現実から遠ざかる。
良い意味でも悪い意味でもだ。
夢中になって楽しくなっている時でも、
負の感情に支配されてカッカしている時でも。
どっちも減らす。
感情は湧いて良い。
喜怒哀楽は全部必要だから存在している。
よくないのは感情にいつまでも引きずられて、
今この瞬間に生きていなくなることだ。
言葉が浮かんでこないならそれを書く。
言いたいことなんかない。
インターネットに吐き出したくなるようなものなんてない。
あるのは
「なんかブログ書きたいけど、書くことねえな」
それだけ。
これは練習。
過去を思い出して言葉を浮かべない。
いつまでも昔のことにこだわらない。
これは練習。
言葉を吐き出している時に、イメージの世界に呑み込まれない。
現実を見ながら言葉を浮かべる。
隣の人の会話は聞こえたまま、このブログを書く。
コップに入ったお茶は見えたまま、タイピングする。
イメージの世界に呑まれず、現実に生きたまま。
終わり!
浮かんだイメージをそのまま言葉にしていると、
どうしてもカッコつけたようにも見える文、
または大丈夫かこの人?
って文になるけど、しょうがない。
だって
言いたいことなんかないし、
過去に起きたことをウジウジ掘り返したくないんだから。
言葉はアドリブ。
他人に何かを説明したいんじゃなければ、
整合性なんてどうでもいい。
ブログはただの文章の塊。
書き方が存在しない。
だからこういう書き方でもいい。
画像は手癖メリエルちゃん
ラクガキっていうのは練らずに振り返らずに描いたもの